新説・日本書紀⑫ 福永晋三と往く
https://gyazo.com/8eaf19f0a65e6363fe3a516d9df97b91
2018年(平成30年)月日 土曜日
11代垂仁天皇は、書紀の系譜に沿えば、魏志倭人伝中の卑弥呼と同時代の天皇に当たる。この巻は数々のエピソードに彩られ、卑弥呼の時代の筑豊の姿がしのばれる。 215年9月、皇后の兄狭穂彦王は謀反を計画し、皇后に「兄と夫とどちらが愛しいか」と迫る。皇后が「兄が愛しい」と言うと短剣を渡し、「天皇の寝首をかけ」と命じた。皇后は10月、高宮(飯塚市伊岐須の高宮八幡宮か)で膝枕に昼寝していた天皇を刺そうとするが、涙がこぼれる。天皇は顔に落ちたその涙で目覚め、皇后から狭穂彦王の反乱を知った。 1カ月を超えても降服せず、皇后は夫と兄との間で苦悩し、ついに皇子を抱いて兄の稲城に入った。天皇は「皇后と皇子を出せ」と交渉するが出てこず、城に火を放った。皇后は城を出て皇子を渡すと城に戻り、狭穂彦と燃え盛る城中で死んだ。
魏志倭人伝によれば、書紀にある狭穂彦の乱は、卑弥呼の在位中に起きたことになる。垂仁天皇は、卑弥呼の弟に当たることも考えられる。
垂仁天皇の時代に、野見宿祢という人物が活躍している。 218年、当麻邑に当麻蹶速という力自慢の者がいた。衆人の中で「生死を問わず、ただ力くらべをしたい」という。天皇はこれを聞き、相手になる力士を捜し、出雲国(飯塚市平塚出雲周辺)の勇士野見宿祢を選んだ。書紀に「当麻蹶速と野見宿祢と捔力らしむ」とある。相撲の起源だ。「各々足を挙げて相蹶む」とあるのはキックボクシングのようだ。野見宿祢が当麻蹶速のあばら骨を砕き、腰を踏み折って殺した。天皇は当麻蹶速の地を野見宿線に与え、野見宿祢は天皇に仕えた。 239年、天皇の弟の倭彦命が死んだ。この際「集めた近習の者すべてを生きたまま陵の周囲に埋めて立てた」とある。日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声を上げて泣いたが、ついに死ぬと犬や鳥が遺体に群れた。天皇はこれを悲しみ、以後殉葬を止めよと言ったとある。魏志倭人伝には、卑弥呼の墓に「殉葬する者奴婢百余人」とあるが、倭彦命の記事と合致することは明らかだ。 その2年後、皇后日葉酢媛命が死んだ。天皇は殉葬を止めようと群臣に相談する。野見宿祢が良策を思いつく。彼は使者を派遣し、出雲国の土部100人を呼び寄せた。自ら指揮して粘土で人、馬、家などを作り、天皇に献上した。「今後、この土物を生きた人に換えて陵に立て、後の世のしきたりに」。天皇は土物を皇后の墓に立てた後、人を傷つけてはならないと命じた。野見宿祢には陶器を造る土地と土部の職を与え、土部臣とした。土物、つまり埴輪の起源だ。埴輪を最初に造った場所は「桂川町の土師」で、古墳と埴輪の取り合わせは筑豊が発祥の地だ。卑弥呼の墓が最後の殉葬墓とすれば、後継者の台与の墓からは埴輪を立てたことになる。 次回は7月7日に掲載予定です
㊤古墳時代後期の小正西古墳(飯塚市)から出土した馬形埴輪㊦同古墳から出土した巫女形埴輪(いずれも飯塚市歴史資料館所蔵)